ホント~~??^^;




こないだテレビを見ていたときに 耳にしたことなのですが。

実は、徳川家康は豊臣家を滅ぼすつもりはなかったのだとする見方が
最近になって出てきているのだそう。


豊臣家を滅ぼすきっかけになった事件として、豊臣方が鐘の文言に
『国家安康』と刻んだことに端を発する騒動が有名ですが。

家康の名前をわざと分断させた、これは家康を呪うために違いないと、
徳川方がイチャモンを付けた、とされていますが。

ある学者が(名前を言ってたと思うのだけど忘れました)調べたところ、
徳川方から抗議があったという事実はなかったとのこと。

でも、名前の漢字を分断させるというのは、現代で考えるよりも当時としては
無礼なこととされており、その点、豊臣方にふくむところがあったのは
間違いないものの。

それでも、徳川方はとくにそのことをあげつらうことはしていなかったのだ
とか。


それと、冬の陣のあとに大阪城の外堀だけを埋める約束だったのが、徳川方
の計略で内堀まで埋められてしまった、というのもつとに有名な話ですが。

それも、実は最初から決められていたことであり、だから内堀を埋める際にも
とくに混乱は見られなかったのだ、とのことでありました。

聞いてて、ええ~っ、ホントかなあと思った私


だって・・・どの本でも、家康は自分の目の黒いうちに豊臣家を潰そうと、
そればかり考えていたように書かれていたし・・・鐘の文言の件など、
渡りに船とばかりに猛然と抗議をして、そのために大坂方は慌てて片桐
且元を江戸にやって弁明させ、それだけでは心もとないので大蔵卿の局や
淀殿の姉までを家康のもとにやって、弁明させたのに。

しかもそのときは、徳川方は片桐且元には厳しく対応しているのに女性たち
には家康自ら会ってソフトな対応を見せたため、両者が大阪城に戻って来て
から報告した内容に食い違いがでて、そのために且元は立場を失くした
うえに徳川の間者ではないかとの疑いまで抱かれ、結局は城を出ることに
なってしまったし。

これなど、家康と息子・秀忠のみごとな連携作戦である、なんていう説が
一般的だったと思うのですが。

その学者の説によれば、秀忠はともかくとして、家康は本当に心のままに
対応しただけだ、ということになりますよね。


それを聞いたときに、心のなかでは「う~ん」と思いつつも、ふと思い出した
本がありました。


隆 慶一郎著  『影武者 徳川家康』 上・下


この本は、去年読んだのですが。

内容はとても面白かったのに ここで紹介しなかったのは、著者が言っていた、
家康は実は影武者ではなかったのか、という説にイマイチ納得ができなかった
から(笑)

まあ、著者も絶対にそうだと言っているのではなく、いろんな事実から照らし
合わせて、そうも考えられるのではないかというスタンスだったのですが。

家康はどうも豊臣家を滅ぼすことに乗り気でなかったような面が見えるの
だけど、それも実は彼が影武者であったとしたら筋が通る、と著者は言うん
ですよね。


この本のなかでは、家康は関ヶ原の戦いが始まったばかりの頃に暗殺される
のですが。

この戦いは、数の上では大坂方が上まわっていたものの、時の勢いという
点では徳川方が勝っており、勝負の行方は混沌としていたようです。

そんなさなかに家康が暗殺されたとなれば、形勢が一気に大坂方へ傾くのは
火を見るよりも明らかであり、なんとしても彼の死は隠しおおさねば
ならなかったのですね。


結局、家康の死は息子の秀忠と数人の重臣以外には知らされず、なんとか
無事に関ヶ原の戦いを勝ち抜くのですが。

その後、秀忠はもう影武者には用は無いとばかりに隠密裏に彼を殺害しよう
とします。

次郎三郎という名のその影武者は、生き残りをかけて秀忠と水面下で闘う
のですね。


秘密を知る重臣たちも、まだ豊臣家の繁栄の記憶が薄れていないこの時期、
秀忠だけでは徳川家を支えきれまいということで、次郎三郎を消すことに
反対します。

なので、次郎三郎は、豊臣家が無事なあいだは自分の身も安泰だという
ことで、豊臣家滅亡を望んではいなかった、ということになるのですね。



なんだか思いがけないところでパズルがぱちっと嵌った感じで、ちょっと
びっくりでしたが(笑)

まあでも・・・この影武者説、面白いけれどもやっぱり無いんじゃないかなあ
と私は思います。

なぜなら。


関ヶ原の戦い以降に生まれたとされる家康の息子たちが、揃って御三家の
開祖となっているからでありますね。

徳川宗家に跡継ぎがない場合は、ここから男子が宗家の跡取りに迎えられる
のだから、これを秀忠や秘密を知る重臣たちが黙って見ているわけがない
ですもんね。

事実、その後、御三家から迎え入れられた将軍も出ているわけだし。


影武者の次郎三郎は、家康の影武者に迎えられるだけのことはあって、
姿・形だけではなく気性というか資質も家康並みにすぐれていたので、
凡庸な秀忠は何度も苦汁をのまされることになるのですが。

それにしたって、次郎三郎が亡くなったあと(世間的には家康が死んだこと
になってますが)にまで、この御三家を残しておく筋合いはないですからね。


史実は史実として、厳として変わらないものでありますが。

その解釈や、関係した人物の心のうちなどは、時代によって変わってくる
ものなのかもしれませんね。


いやあ、面白いですね(^O^)



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この記事へのコメント

2015年01月19日 01:03
時代小説は、いろいろな仮説が
面白いですよね
天海僧正も明智光秀という説があって、読むとなるほど
そんなことないとは思うけど
2015年01月19日 11:49
イヤー・・・キープーさんの解説はキチンと筋が通ってますね。通説をよく理解して書かれていると感じます。
してその真実は・・・・???
ところで、秀頼の父親が秀吉ではなかったことは明白だと思います。名前は忘れたけど、大阪城の城代家老という説はどうですか?まさか石田光成ではなかったと思うけど・・・・。
キーブー
2015年01月19日 18:06
もうヘトヘトさん、こんばんは
天海僧正はこの鐘銘事件にも大きくかかわったと言われていますよね。僧でありながら家康の参謀でもあった人だし。
今ちょっと検索してみたのだけど、たしかに天海僧正=明智光秀説ってあるみたいですね。私は初耳でした。ちょっとびっくりです^^;
キーブー
2015年01月19日 18:16
あきさん、こんばんは
お褒めいただき ありがとうございます(*^_^*)
歴史小説はわりに好きなので いろんな人のを読んでますが、そうするといろんな見方があるのだなあとしみじみ感じるんですよね。史実はひとつなのだけど、取りようによって違うものだなあ、と
そうですね。まあ順当に考えて、淀殿にだけ2度も懐妊の機会があったというのも解せないことですよね(笑)
でも、秀吉がまだ一武将だったころ、南殿と呼ばれた側室が男の子を生んだという記録もあるんですよね。早逝してしまったようですが、そういうこともあるので、絶対に秀吉の子ではないとも言いきれないと思います。晩年は異様に酷薄になったあの秀吉が、そんなことを黙って許すとも思えないし^^;

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